大河内君自殺が突きつけるもの

「もっと生きたかった」悲痛な叫びをあげて、自らの命を絶った大河内清輝君。彼の死は、多くの類似するいじめ自殺事件の中でも、現代日本社会全体に際立って激しい衝撃を与えた。それは詳細な遺書と想い出をつづった死への旅立ちを意味する「旅日記」を記していたことにより、そのいじめの凄まじくリアルな実態と彼の苦悩が、残された者に手にとるように伝わったからに他ならない。もし、遺書らしき印を残していなければ誰にも真実が伝わらず、単なる「事故死」の三文字でかたづけられていたに違いなく、現に学校は「事故死」の報告を提出していた。今まで多くの「いじめ疑惑死の子供たち」も、多かれ少なかれ大河内君と同質の苦悩を抱えながら他界していった。いったい私たちの受けた衝撃和なんだったのか?四つに分けて分類・整理することができる。(1)彼が受けたいじめそのものに対して。 恐喝されていた金額が114万円という高額な点や命の危険が伴うほどの溺死いじめ。学年で10番以内と成績が良かった彼への「挙手禁止」という学習剥奪いじめ。毎日のように「お茶くみ」をやらせる等の「つかいっぱ」いじめ。女子トイレに入らせたり、体育館で下着姿にさせる等の性的いじめ。枚挙にいとまがないほどの多様性と陰湿性。そして何よりもその多さと質の酷さ。(2)これらの凄まじいいじめが、見えてなかった訳ではないということ。見えるいじめであったにもかかわらず、彼を苦しめ、悩ませ、脅えさせ、そして遂には死に追いやってしまった無力感であり、悔やむに悔やめない思い、無念さです。クラスの女子数人は見兼ねて坦任の先生に訴えているのです。しかし、まともに相手にしてくれず、がっかりしたと言います。級友も担任も知っていたのです。両親も気が付いていました。いじめられているのではないかと何度も聞き出そうとしていました。自転車を壊されて、いじめられている旨を父親は学校にも訴えていたのです。しかし、ここでもやはり、相手生徒が否定するとそのままに放置されているのです。両親もオーストラリア旅行にまで家族ぐるみで出かけて、彼が真実を打ち明けてくれるのを待とうと努力はされたのです。だからこそ両親もわかっていたのです。地域の人々の間でも、ゲームセンターやコンビニの店員さんは気付いていたのです。あれだけ高額のお金で中学生がゲーム遊びをしたり、また一万円札をくずして、分配しながら買い物までしていたのです。店員さんは目撃し、その異様さに気付いていたようです。周囲の子供も大人も、みんな知っていたのに誰一人として彼の生きる味方になり得なかったのです。あまりに不条理ではないでしょうか?(3)いったい今日の中学教師はどうなってしまったのかと言う不安。教育力の喪失にとどまらない、生徒を死に至らしめるほどに学校は「危険な場所」になってしまったのかという不安です。なぜ毎日生活を共にしながら、子供の真実にさえ見えなくなっているのか?子供の叫びがなぜ心に響かないのか?(4)家庭はどうなってしまったのか?素朴な疑問に包まれたのです。我が子の自殺をストップさせる親子の絆が希薄になっている証拠事例に見えたからです。もしも、これから自分が家庭を持ち、自分の家庭で発生しても不思議ではない共通性を認識したからです。背筋の凍る思いをしたのです。これらの四課題の明解な分析と解答こそが、衝撃を受けた大人たちに展望を示すことになると思い、このような問題意識の下に考えていく。

周囲の子供たちも同じで、自分として譲れない大切な価値や、家の誇りのようなものも持ち合わせてはいない。良く言えば何者にもとらわれない自由人である。誰もが何者にもとらわれない自由人である。その時々の一面的な強者が一面的な弱者をいじめのターゲットにする。そして強者のその時々の欲求不満のはけぐちになる。感情コントロールの手段としてまるで八つ当たりのように攻撃を加える。仲良しグループの中でリーダー格の女子がある日をもっていきなりシカトされ始める様なのが今日のいじめなのである。だからこそ誰がいじめられても不思議ではなく、何時何をきっかけにいじめが始まるかもわからない。傍観者も下手に動けないで、全体の流れに身を任せて自分を守らざるを得ない。   
(1) 少数の被害者と多数の加害者、直接行為には知る加害者は多くても、一クラス5人未満であるにもかかわらず、大多数の傍観者が「傍観」行為によって「加害」者側に実質的に転化しています。いったんいじめに遭うと昔のようにいじめない他のグループと付き合うことも、逃げ込むグループも存在しないのである。利害関係も何もないはずのクラスの連中までもが全員自分を無視する、増してや誰も批判していじめを止めさせようとはしない。これは被害者にとっては大きな恐怖であって教室は生き地獄と化し、全員が敵に見える。
     
(3)集団生活の場が教室に一元化されて逃げ場を失う。今日の子供たちは学級以外の異質の集団を持ってなく、放課後の遊び集団も、地域などでの強力な仲間関係も希薄で、学級、学校から阻害されると行き場がなくなってしまう。
その第一現象が不登校や登校拒否である。いじめがその背景に潜む場合が多いのである。部活やクラスを逃げ場にしようにも、クラス内の力関係が波及してきてしまう。(4)大河内君の例でも実証された通り、いじめが陰湿で残忍であると言うことである。
(5)長期化傾向。今日のいじめの特徴として、小学校から中学校また高校までなどといじめの長期化がある。
(6)発見しずらい。昔のいじめは、子供たち同士の中で解決し、克服されていくことが多く、たとえ発見しずらくとも、それほど心配はなかった。しかし、現代のいじめほど発見困難なものはなく、教師がきづいたときにはかなり長期化し、深刻になっている場合が多い。発見困難理由は、第一に本人が告白しないからである。第二にいじめる側はもちろん関わりのない傍観的立場の子供たちも決して教師や本人には言いたがらない。これは思春期の発達特性との関連が強く、大人の権威や指示から離れて自立を求めて、あがく子らは、大人を拒否することで成長しようとする。このようなことからも、加害者のいじめっ子達はどんなに酷いいじめをしてもある意味ではバレル心配はしていない。このような発達上の思春期特性の世界にも住んでいるから、大人に伝わらないばれない確信のような心情がどこかに強く潜んでいる。

思春期のいじめは質の失意を生む。今日のいじめは前節で述べたように陰湿で排他的で集団性、攻撃性を帯び容赦なく人間性を否定し、人格破壊を引き起こす。人生の意味、自己の存在意味、生と死について孤独で内省的な精神生活を迎え始めた思春期の子供たちだからこそ頑丈な足場としての人間関係の安定、大人、教師への信頼が不可欠である。ところがいじめはその正反対の世界に引きずり込む。精神的自立の足場をいきなり取り払うに等しい衝撃を与える。事故存在の否定と絶望と言う最悪の世界に追い込むことになる。だから思春期のいじめは死と隣り合わせなのである。


みんな見て見ぬふりの典型だな。自分も体験済みだし、自分の身を犠牲にまでして誰も助けちゃくれないということは知っているので、こうして明確に記述された論文を見せ付けられるとうぅむと納得せざるを得ない。TVで評論家などが小銭稼ぎに勝手なことをトークしているが、あんなものがあてにならないのはイジメにあっている本人がよくわかっているはずである。