「狼に喰はるるものの事」
京より有馬へ通る道に、牧といふところ、芝といふ村あり。元和五年の冬、牧の里より、十二になる姉と、九になる妹を、芝の紺屋へ染物をとりにやる。・・・狼出て妹にはかまはず、かの染物持ちたる姉にとびつきて道をやらず。・・・妹家にかえり。「姉はべべがゐて通さぬ」といふ(べべとは牧唱に小うしをいふなり)。親聞き、「なになに狼ならん」と飛んでゆく。人々も跡より行きしに、案のごとく狼、娘を喰らふ。
「やれ」とて走りよるにぞ、そろそろと狼は逃げぬ。驚きたる体もなく、南の山さして行く。え取もとどめず。親はそれにもかまはず娘にとりつき嘆けども、もはや脇の下より、はらわた引き出して喰らへり。物も云はず、またたきしばしして空しくなりぬ。
(P.286、287) 「宿直草」『近世奇談集成(一)』(国書刊行会1992)