司法試験予備校の成立

1 司法試験予備校の成立
 司法試験予備校の大手として知られているのは,LEC,早稲田セミナー,辰巳法律研究所伊藤塾の4校であり,創立時期はLECが1979年,早稲田セミナーが1974年,辰巳が1973年,伊藤塾が1995年とされています。このうち伊藤塾はLECの人気講師であった伊藤真氏が独立したものであり,その他諸般の事情を考慮すると,司法試験予備校が定着したのは概ね1980年代前後のことではないかと推測されます。
 黒猫は,1997年から1999年まで,早稲田セミナーで司法試験の勉強をしていましたが,その当時に黒猫が受けた説明によると,予備校教育のポイントは?司法試験対策に特化した効率的な情報提供(講義及びテキスト),?論文試験の答案添削指導にあったものと思われます。
 まず?ですが,独学で司法試験(新旧問わず)の勉強をする場合,一番大変なのは情報の取捨選択です。司法試験の勉強をする場合,法律の条文に始まって,その条文に関連する法律上の問題点,その問題点に関する学説や判例の状況などといった膨大な情報を頭に入れる必要がありますが,関連する書籍・論文・判例といった文献の量はあまりにも膨大であり,一人で全部読みこなそうとしたらきりがありません。
 法学部の授業を聴けば一応大学の教授が担当科目について教えてくれますが,従来から法学部の授業は,司法試験の受験生に対する配慮など微塵もない一方通行の講義に終始しているものがほとんどであり,講義を聴いただけで司法試験に必要な知識が身に付くようなものではありませんでした。何も知らない学生が,法学部の授業を聴いただけで司法試験の勉強をしても,膨大な文献のうち試験に必要な情報がどこなのか自分では判断できず,いつの間にか司法試験とは無関係な文献を読むことに没頭してしまい,ますます合格から遠ざかってしまうことも珍しくありませんでした。
 そこで,予備校の創立者たちは考えました。膨大な情報のうち司法試験合格に必要なものだけを簡潔にピックアップした独自のテキストを作成し,司法試験における重要性が高い事項に的を絞った講義を提供すれば,受験生達は従来よりはるかに効率よく司法試験の勉強ができるし,受験生達が司法試験の合格後に得られる利益を考えれば,商売としても十分成り立つのではないかと。

 次に?ですが,司法試験の論文試験は,試験科目の基本書・体系書をひととおり読みこなした程度では,答案を書けるようにはなりません。法律試験の答案には独特のお作法というものがたくさんあり,そのようなことは基本書には一切書かれていません。しかも,短い制限時間内で論文試験の答案を書き上げるには相当の訓練が必要です。
 そこで,予備校の創立者たちは考えました。受験生が効率よく司法試験の勉強をするには,自分の書いた答案を講師や司法試験合格者などが添削指導してくれるシステムが必要不可欠なのではないかと。答案の個別添削指導などというものは,大学OBによる独自の受験指導を行っていた慶應義塾大学中央大学など一部の私立大学を除いては,大学法学部では到底期待できないものでした。

 創立者たちの読みは大当たりでした。司法試験の予備校が普及していくと,司法試験に合格するには予備校で効率よく勉強するのが必要不可欠となり,少なくとも黒猫が法学部生であった1990年代には,法学部生が司法試験合格を目指すなら大学の授業と並行して予備校通い(いわゆる「ダブルスクール」)をするのが当たり前という時代になっていました。

2 予備校教育の限界・問題点
 もっとも,世の中には何事もメリット・デメリットというものがあります。司法試験の受験生には大変便利であった予備校教育にも,その限界ないし問題点はやはり存在しました。
 まず?に関しては,予備校の講義やテキストには司法試験合格に必要最小限度のものだけが詰め込まれる結果,必要性の薄いものは捨象される傾向にありました。例えば,とある論点について学説の対立がある場合,実際の学説は何十頁,あるいは何百頁もの論文によって細かく主張されており,しかもその内容は様々な歴史的経緯により変遷しているのですが,1問あたり4頁しかない論文試験の答案に学説の歴史的経緯など到底書けませんので,予備校のテキストでは,学説の内容はせいぜい学者1人あたり3〜4行くらいに要約されてしまいます。学説の提唱者である大学法学部の教授たちにとっては,このように陳腐な要約は大変我慢のならないものでした。
 そして?に関しては,予備校のテキストには「論証パターン」と呼ばれる,論文試験で該当論点が出題された場合の答案作成例となる文章が書かれており,受験生はそれを読んで答案の書き方に関する大まかなイメージを掴んだ後,実際の答案練習(答練)を何回も受けて,知識を定着させるとともに答案作成のテクニックを身に付けていくことになりますが,司法試験は単なる知識ではなく応用力を問う試験であるため,予備校の論証パターンを暗記しただけで最終合格は不可能です。答案作成の訓練を積んだ上で,最終的には司法試験の本番で未知の問題が出題されても,これまで学習したことを活かして何とか法律家らしい答案を書けるようになる,というのが最終的な目標でした。
 しかし,このような応用能力は,人間が持つ能力のうち最も高度な部類に属するものであり,予備校で勉強すれば誰でもそのような能力を身に付けられるようなものではありません。応用という発想のできない人は,論証パターンの丸暗記だけで答案を作成するという傾向に流れがちであり,司法試験の本番でもそのような答案が目立つようになりました。このような答案の傾向は「金太郎飴答案」などと呼ばれ,その多くは一応問題文に関連することが書かれているものの,問題文に示された出題の真の趣旨とはほど遠いものであり,司法試験の考査委員たちを落胆させるものでした。
 もちろん,そのような応用的思考力を示さない「金太郎飴答案」を書いた受験生の多くは落とされる運命にありましたが,政府の方針により司法試験の合格者数が短期間で1,000人,さらには1,500人と増やされて合格レベルが下がってくると,そのように不十分な「金太郎飴答案」の受験生でも,いや時には「金太郎飴」の水準にすら達していない不十分な出来の受験生でも,点数の高い順に合格させざるを得なくなっていました。
 予備校はなるべく多くの受験生を合格させるのが仕事であるため,本来は不十分な「金太郎飴答案」でも合格が可能であれば,間違っているリスクのある受験生自身の考えを答案に表現させるよりも,まずは確実に「金太郎飴答案」を書いておけ,と指導することになります。実際,合格者数が異様に増やされた旧司法試験時代の末期にはそのような指導も行われたようですが,それは予備校教育の責任というよりは,合格者数増員先にありきの政策的判断で金太郎飴答案にも合格点を与えてしまった政府と司法試験委員会の責任であるというべきでしょう。

3 法科大学院教育との断絶
 司法試験の予備校は,初心者が独学で学ぶにはあまりに複雑なわが国の法律学と,あまりに不親切な大学法学部の授業を背景として成立したものですが,予備校教育とて万能ではありません。予備校がいくら頑張ったところで,政府の方針により人為的に司法試験の合格者数が引き上げられれば,それに応じて合格者の質が低下することは避けられないのです。
 司法審の意見書により設立された法科大学院制度は,このような従来の法学部教育に対する反省と,予備校教育のメリット・デメリットを的確に分析した上でその問題点を克服するような教育を行うものではなく,予備校教育の実態について何らの調査もしないまま予備校教育を全否定した上で,お偉い大学教授たちが少人数教育で指導すれば当然に予備校より優れた教育成果を挙げられるという,現実にはあり得ない前提を基礎にしたものでした。
 しかも,法科大学院制度導入の主たる目的は,要するに予備校に奪われた学生を国家権力の力で大学の手に取り戻すというあからさまな大学エゴであったため,その導入に向けた議論は,要するにアメリカのロースクールを模倣すれば何もかも上手く行くという乱暴極まりないものであり,具体的な教育カリキュラムの検討が始まったのは開校のわずか半年前であったとも言われています。
 このようにして,予備校教育を排除するという前提で,従来の予備校教育とは完全に断絶した形で始まった法科大学院制度ですが,実際には教育内容についていろいろ試行錯誤した挙げ句,今では卒業生が実務で受け容れられるにはまず司法試験に合格しなければならず,そのためには結局のところ予備校と同じような教育をやらざるを得ない,旧試験と同程度以上の質を確保しつつ司法試験の合格者数を大幅に増やすという法科大学院制度の「政権公約」はおよそ実現不可能であるという現実に誰しも気が付いています。法科大学院存続のためには決して受け容れられない現実を目の当たりにして,法科大学院の教授や文科省の役人達は大変に苦悩していることでしょう。
 ちなみに,司法試験の受験生に個別の答案添削指導を行うことは,予備校でも大変な手間のかかる作業であり,現実には司法試験合格者にアルバイトで答案添削の仕事をさせるのが一般的でした(市場競争社会ですから,合格者でも丁寧な添削をして受験生の評判も良い人が生き残り,そうでない人は次第に仕事を失ったのは当然です)。予備校を批判する人の中には,添削者の質に問題があるなどと指摘する人もいましたが,授業料設定との兼ね合いではそれが限界だったのです。
 法科大学院は,予備校と比較してあまりに余計な人件費がかかるシステムであるため,予備校よりはるかに高い授業料を学生から徴収し,さらに国の財政援助まで受けているにもかかわらず,個別の答案添削指導はほとんど行われていないようです。奇妙なことに,誰もその現実を正面から問題にしようとしません。

4 克服できない法科大学院制度のジレンマ
 そもそも,法科大学院制度には受験生全員に修了を義務づける以上,法科大学院教育に司法試験の合格とは異なる何らかの付加価値がなければその存在意義を説明できないという根本的な問題点があり,そのためアメリカのロースクールでも正規の授業科目として司法試験の受験指導を行うことは禁止されているのですが,制度発足後130年以上もの伝統を誇るアメリカのロースクールでさえも,ロースクール教育独自の存在意義については,十分に説明できていません。
 特に,アメリカ・ロースクールの3年次教育については,現在でも法学教育者の多くが「必要ない」「2年間で十分ではないか」などと議論しており,『アメリカ・ロースクールの凋落』の第2章では,20世紀の初頭に当時の法曹支配者階級が,当時存在した2年制のロースクールを卒業した新移民(東欧系,イタリア系,ユダヤ系など)の法律家により法曹の評判が落とされることを危惧し,あからさまな人種・民族差別主義と移民排斥主義の思想に基づき,一流ロースクールと結託してロースクールの3年制を定着させた経緯が説明されています。
 日本の法科大学院で司法試験の受験指導が禁止された経緯は,法科大学院が理想としたアメリカのロースクール制度と,予備校教育とは異なる独自の存在意義を誇示しなければならない法科大学院の立場を考えれば容易に理解可能ですが,それではどのような教育が「本来あるべき法科大学院教育」であるかについては,誰も具体的な考えを持ち合わせていません。仮に持ち合わせていたとしても,そのほとんどは少なくとも司法試験合格レベルの学生でなければ十分に理解できないものであり,法科大学院生の教育水準に適合せず,実際の教育現場ではそのことごとくが挫折しています。
 旧司法試験がベースとなっている現行実務に適合した法曹を養成するには,結局のところ司法試験対策を重視し,従来の予備校教育を少なくとも相当程度取り入れた教育を行わざるを得ないのですが,その現実を認めてしまったときには,同時に法科大学院制度の運命も尽きるのです。
 予備校教育のうち,法科大学院教育として相応しくないと何とか断言できるのは,旧試験時代末期のように「合格するには自分の考えを書かずに金太郎飴答案を書いておけ」と学生にアドバイスすることくらいでしょうが,実際には法科大学院がこのような指導をする心配は無用です。なぜなら,現実の法科大学院は,卒業生に「金太郎飴答案」を書かせる程度の教育力すら持ち合わせていないか,あるいは誰に一生懸命教育されても「金太郎飴答案」を書けるようにならない学生しか入学してこないからです。
 ちなみに,旧試験時代の受験生は,予備校の作った論証パターンを一生懸命丸暗記して「金太郎飴答案」を書いていましたが,新試験時代の受験生は,長い問題文をほとんど丸写しにして「金太郎飴答案」を書いているようです。どちらが法曹としてマシといえるかは,非常に難しい問題です。

5 まとめ
 法科大学院関係者としては,どんな授業をやっても法科大学院とはそういうものだ,法科大学院法科大学院というだけで価値があると誰しもが思い込むようになるのが理想だったのでしょうが,実際にはアメリカのロースクールでさえ必ずしもそのようにはなっておらず,特に近年では存続の危機といえるほどの大変な批判に曝されています。
 司法試験の受験指導との関係で,法科大学院教育のあるべき姿について論じられた和田先生のご意見は黒猫も全く正論だと思いますが,おそらく法科大学院制度の熱心な擁護者たちは,誰も和田先生のご意見に耳を傾けないでしょう。なぜなら,和田先生のご意見はもともと合理的根拠の無い法科大学院制度の存在基盤を根底から覆すものであり,法科大学院における司法試験の受験指導を正面から肯定することも,また否定することも,法科大学院制度の死を意味するからです。

医学教育の是非を考えている者です。
医学教育でも似たような問題が発生しています。
そもそも、日本の医学は、ドイツから輸入された分野なので、日本語の教科書がありませんでした。長らく、大学教員が理解している内容を日本語で教えることが、医科大学の存在意義でした。

ところが、日本語の教科書が次第に整備されてくると、自分で医学学習をすることができるようになります。初期の教科書は、辞典のような厚さである、読破することも難しいし、要点を見つけることができなかったのですが、20年くらい前に、それをさらに要約した自習用教科書が作られました。

医学部生は、自習用教科書を書店で買って読むことに熱中し、講義を聞かなくなりました。講義で出席を取ると、寝るか内職するか私語をするかのどれかになってしまって、収拾がつかない。

そのため、次第に講義は廃止され、自習が主体になりつつあります。チュートリアル教育というものです。しかし、自習をするだけなら、自分でできるので、学校教育はいらないのです。達成目標はCBTと国家試験です。

医学教育が、それでも、維持されているのは、国家試験受験資格を独占しているからであり、内容が優れているからではありません。