内藤朝雄は素晴らしい

本書は、いじめにたいして、個別な解決法ではなく、大きな構造的な問題を指摘しています。
イジメはなぜエスカレートしていくのか。
いじめをする人たちは、なぜ反省しないのか。
学校の先生や保護者たちは、なぜ学校を守ろうとするのか。
こんな疑問を持っている人は、この本で納得いく答えを得られるかもしれません。

例によって、一部を引用してみます。

>秩序の生態学モデルに従って、生徒たちが生きている小世界の秩序を考えてみよう。それは、「いま・ここ」のノリを「みんな」で共に生きるかたちが、そのまま、畏怖の対象となり、是/非を分かつ規範の準拠点になるタイプの秩序である。これを、群れの勢いによる秩序、すなわち群生秩序と呼ぶことにしよう。本書で紹介する事例は、このようなタイプの秩序を、典型的に示している。

本書を貫く「イジメの構造」は、著者が「群生秩序」と呼ぶものです。
普遍的な理念やルールによって是非を判断するものではなく、その場のノリがすべてを決めるの秩序です。

>彼らの小社会では、ノリながらやるのであれば、何でも許されるが、「みんなから浮いて」しまったら、何をやっても許されない。中学生たちはその場その場のみんなのノリをおそれ、かしこみ、うやまい、大騒ぎをしながら生きている。みんなで盛り上がるのが命みたいな感じ。今、思い返してもゾッとする。

中学生たちは、その場のノリで生きれるかどうかです。
浮いてしまうことを一番恐れるのです。
いじめもノリの一つであり、「おもしろかった」「ストレス発散」という、ノリの意味しかないようです。

>加害者たちがしていることは、他者〈被害者)の存在を、手のひらの上の粘土のように、壊したり、ねじ曲げたりして、自己のパワーを楽しむ、いわば神を気どった遊びである。いじめの全能は、自己の手によって壊されていく他者の悲痛の手応えのなかから、加害者が、力に満ちた自己の姿として手に入れる、鏡像の感覚である。その筋書は、いじめの対象(被害者)にも固有の感情や世界がある、ということを承知しているからこそ、そういったものや尊厳をいかに踏みにじるか、という遊びの筋書である。

いじめの加害者は、相手の気持ちが分からないから、やっているというわけではなさそうです。
相手の痛みが分かるからこそ、それを踏みにじる楽しさを感じるのでしょう。
全能気分を味わうのが、いじめという遊びのようです。
本書に取りあげられる事例は、寒気がしてくるほど非人間的です。

> 加害少年たちは、危険を感じたときはすばやく手を引く。そのあっけなさは、被害者側も意外に思うほどである。損失が予期される場合には、より安全な対象をあらたに見つけだし、そちらにくら替えする。加害者側の行動は、全能気分に貫かれながらも、徹頭徹尾、利害計算にもとづいている。

加害者は全能気分ではありながら、利害計算には敏感なようです。
親や教師が注意すると、すぐに行動をとめて様子をみるようです。
思ったほどではないとなると、再開し、さらにエスカレートするのです。
学校は、警察力を入れるのをためらいます。
そのことが、いじめを拡大させているようです。

> 学校では、ひとりひとりの気分やふるまいがたがいの深い部分にまで影響しあう、集団生活による全人的な教育の共同体がめざされ、それがひとりひとりにきめ細かく強制される。若い人たちは、一日中ベ夕べタと共同生活することを強いられ、心理的な距離を強制的に縮めさせられ、さまざまな「かかわりあい」を強制的に運命づけられる。

学校は、児童生徒を強制的に囲い込み、学校の色に染め上げようとします。
学校は、閉鎖的でベタベタすることを強要される社会です。
学校は、特定年齢層のすべてを含む中間集団全体主義として成立しています。

著者のいじめ社会の解消法は、教育制度の見直しです。
>1<学校の法化>
学校内の治外法権を廃し、通常の市民社会と同じような基準で、警察を呼び法に委ねることです。
>2<学級制度の廃止>
「しかと」や「くすくす笑い」などのコミニュケーション操作系のイジメには、共同体的な枠組みがなければ、かなり減ってくるといいます。

いじめは、学校という中間集団全体主義の場が根源のようです。
それは、学校の先生の問題という訳ではなく、保護者をはじめ社会の人が学校に期待している部分に問題があるのです。
著者の解決法に全面的に賛成というわけではありませんが、傾聴すべき提言だと思います。

長い引用と説明になりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

本書では、「学校がほかの場所にくらべても、はるかにいじめが起こりやすい場所である」と指摘している。

クラスは強制的に決められ、そのクラスの中で友達をつくらなければいけない。
せいぜい30数人の中で、気の合う友を見つけるのはそう簡単なことではない。
また班行動を強いられることで、とことん理不尽な事態を引き起こす
『クラスの生徒の中でグループを作らされるとき、あまってしまった生徒が出る場合、教師は「誰かこの子を入れてあげて」と叫ぶ』「班行動によって、クラス内の序列付けが明確にされ、さらに追い込まれてしまった」
今なお続く日本の学校・学級制度は子どもたちに残酷な思い出をつくり続けている。

また「多くのいじめは、排除のためじゃなくて、飼育のために行われている。「嫌なヤツ」を追い出すためでなく、相手を「弱いヤツ」のままでいさせてオモチャのようにして攻撃、反応を楽しみ続けることを目的としているんだ」というところに、伝染していくいじめの本質、嫌らしさを
みることができる。