内申点という悪魔

3年生のころから私立を受験させるかどうかが話題にのぼるようになったと記憶している。たまたま中学のグラウンドを正面に望む場所に自宅があったため、朝礼や部活の様子がいやでも聞こえてきた。汚い言葉でののしる指導教師の大声が、部屋の中までとびこんでくる。ごく標準的な中学なのかもしれないが、決して望んで通わせたい雰囲気ではなかった。

当時の妻の友人だったK夫人の影響も大きかっただろう。小学校から子供を山手の私立に通わせていた夫人は、公立の劣悪さについてさまざまな過激情報を与えてくれた。いわく、あの中学からでは学区の一流高校に行くなんて夢の夢、ほんの数人が、ようやく2流校へ進学できるにすぎない。学力最低の不良中です・・。

いま振りかえってみると、かなり夫人独特の思い込みが激しく、情報も偏っていたことがわかるが、しかし大筋では誤ってはいなかったようだ。実際には、この公立中学も、それなりの進学実績(もちろん低いレベルでの話だが)をあげている。ただ、ようやく送りこんだ公立トップ高校ですら、その中身は昔日の感がある。

しかし我が子の場合は、ちょっと違う。もしそれなりの資質があるのなら、できるだけその資質を伸ばしてやりたい。同じような資質の友人を持たせてやりたい。つまらないクラス内のいじめや学力への嫉妬(めだつ子は差別される。主張する子は嫌われる。かしこい子は必死に個性を埋没させようと努力するしかない。これが私自身も覚えのある底辺中学の特徴だ)に苦しむ中学生活から、開放されるのが高校の良さであるはずだ。自己を主張することが尊敬され、特にめだつ勉強をしなくても、学力がついていく。そんな高校へM子をすすませてやりたい。

そもそもM子に学力があったとしても、中学からトップ校に進学できるだろうか。これが難しいのだ。成績が至らないために入学できないのなら、これは当然のことなのだが、いまの高校受験システムは、その当然が通用しなくなっている。

受験さえさせてもらえれば、ほぼ間違いなく合格できるのだから。鍵は内申である。内申でオールラウンドに最高値をそろえていない限り、トップ校の受験は許してもらえないのが、現在の高校受験システム。だから夏休みの課題の「ひわまりの開花」に親が目の色を変える。ひまわりの花が咲かないために、ポイントを下げてはならないからだ。

跳び箱ができないことも致命傷になる。内申の占める比重が大き過ぎるのだ。そしてM子の場合、体育で内申10を揃えることは不可能だ。本人が最大限に努力しても、せいぜいで5だろう。いくらほかの学科で最高点をとり、素行で評価してもらっても、学区トップ校を受験できる保証はない。そして学区の2流高校にいたっては、悲惨な状況だ。3流校は悲惨を通りこしている。

近隣の大学教授の長男は、公立中学へ進んだ。進学させる時点では、信念をもっていたらしい教授は、数年後に会ったとき、顔をゆがめていた。「ひどいとは思っていましたが、予想以上にひどいものでした」 教師のレベルがひどい。やる気のない多くの生徒たち。目立つ子供(能力のある子供が目立とうとするのは、ある意味では自然)への抑圧。子供同士のすさまじい競争意識。もう高校は私立にします、と彼は語った。そして下の弟は塾に通わせています、と話した。これが実態である。