難関大学合格者は、本当に一日十時間勉強しているか――ガリ勉という名の神話

最近、通勤電車で地元の進学校の2年生とおぼしき男子グループに遭遇することが多く、そのグループの会話をよく耳にする。会話から聞こえる模試の成績から察するに、彼らは「ゆくゆくは東大京大か医学部狙い」といった学生らしい。いわゆる、“できる”高校生なのだろう。

 

 けれども会話の内容の大半は、週末に池袋に行くだの、ニコニコ動画で何を見ただの、誰と誰が付き合っているだの、そんな感じ。なかなかにお洒落で会話も闊達な様子を見るにつけても、いわゆる「ガリ勉」というイメージには程遠い。どう考えても、彼らはスクールライフを満喫している。

 

 そんな彼らを見ていて、ふと思った。そういえば、世間で言う「ガリ勉」って一体何処にいるんだろう。そもそも、難関大学に入るにはガリ勉しなければならないのか?

 

 もう十数年昔、私が地方の高校にいた頃を思い出しても、東大や京大に行ったクラスメートは大抵遊んでいた。もしかしたら影では勉強していたかもしれないし、世界史や化学の時間に数学や英語を内職するようなこともあったと思う。けれども灰色の青春を送っているような人はいなかったと思う。「ガリ勉」という言葉の似合うような、やたら勉強している人は成績上位者にはあまりおらず、むしろあまり成績の良くない領域に、やたら勉強に時間をかけている人が少数存在していた、と記憶している。

 

 地方の公立高校でさえこんな様子だから、私立の、いわゆる受験名門校から難関大学に進む人達は尚更だろう。能率化されたカリキュラムのもとで学ぶ彼らが、田舎の高校以上にモーレツに受験戦争をやっているという話は寡聞にして聞かない。

 

 だというのに、「難関大学ガリ勉して入るもの」という偏見を持っている人が今でも存在する。

  

 偏差値30台の高校行ってるけど東大行きたい

 

 例えば上記リンク先では、一日8時間だの10時間だのという言葉が飛び交っている。「偏差値70前後の高校の奴が毎日10時間でようやく東大だろ 」などという、妄想じみた文章すら混じっている。そんなのネタでしょう?そんな人、本当にいるんですかね?

 

 高校生活は一度きり……その貴重で揮発性の高い時間のうち、一日10時間も受験勉強に割けばストレスが溜まろうし、ストレスが溜まれば効率的な学習なんてできっこない。むしろ、そんな受験勉強をやって憚らないのは「私は、時間という有限のリソースをやりくりするのが下手です」と言っているようなものだ*1。座学ばかりで高校生活を過ごしていたら、高校時代にやっておきたかった事に挑戦できなかったという不全感・喪失感を抱えた、高校生ゾンビになってしまってしまいそうでもある。こういった問題があるので、実際の「ガリ勉」には相当なリスクが伴う。そんなリスクを背負いながら難関大学に入るのは、かえって難しいのではないか。

 

 個人的には、「難関大学に入っている人はガリ勉している」というのは、一種の偏見、またはデマゴーグの類に近いと思う。実態からズレた、妙な話が流通しているのではないか。

 

 

難関大学ガリ勉」という物語を必要としている人もいる
 

 「難関大学に入っている人はガリ勉している」という“物語”が流通しているのはなぜか?個人的には、「勉強さえすればどんな大学にも入れる」という受験神話の、副産物ではないかと思う。

 

 高度成長期以来、“勉強して良い大学に入る(そしてその後の人生を有利に過ごす)”という物語をたくさんの人々が信じ、途方もない時間とお金を受験戦争に費やしてきた。『身分や家柄によってではなく、勉強の出来が良ければ立身出世も夢ではない』という物語は信じるに値するものだったし、実際、そうやって難関大学に合格して良い就職先を得たという話も耳にはする。

 

 しかし、この受験神話のなかには、嘘や思いこみが混じっている。

 

 その最たるものが「勉強時間と成績は比例する」である*2。転じて、「勉強に時間とお金をかければかけるほど、成績は上がる」という思いこみもある。

 

 ところが現実はというと、受験勉強にかけたコストと成績上昇は比例しない。勉強はしているけれども勉強の要領がいっこうに分からない人や、ある一定のレベルから伸び悩む人もいる。また、通っている高校や友人関係といった環境にも大きく左右される。できの悪いネットゲームとは違って、盲目的に時間と労力さえ投入すれば良いというものではないのだ*3。だから冒頭で紹介したように、高校生生活をエンジョイしながら高偏差値校にまっしぐらな人達もいれば、盲目的に勉強しているけれども頭打ちな人達もいる。「勉強時間と成績は比例する」とか「勉強さえすれば どんな大学にも入れる」という思い込みは、遅かれ早かれ、思い込みと現実とのギャップに直面することになる。

 

 こうした現実とのギャップを解消するためには、「勉強時間と成績は比例する」は間違いであったと認めてしまうしかない。しかし、そのように認めることは「自分は、勉強しても限界がある」「自分には勉強の才能が無かった」と認めることと表裏一体の関係にある。自分自身の可能性の限界を認められる人は、「勉強時間と成績は比例する」という嘘にすぐ気づくが、世の中には、この嘘を引き受けたくない人もいるようだ。

 

 そこで、こう考えるのだ。

 「難関大学に入っている人達は、素養や効率性に優れているのではない。努力の量が超人的なのだ。ガリ勉しているのだ」と。

 

 こう思い込んでいる限りは、「自分の成績がさほど伸びなかったのは、自分の勉強の素養や効率性の問題では決してなく、単に努力が足りなかっただけだから」という風に思い込むことが可能になる*4。裏を返せば、「自分だって、ガリ勉すれば難関大学に入れた筈なんだ」「本当は自分はやればできる子」という全能感を放棄しなくて構わない、というわけだ。

 

 ここでは「やればできる子」という全能感を放棄しないようにする一手段として、「難関大学ガリ勉」という物語が要請されている、と言い換えることもできる。難関大学合格に対し、現実にはあり得ない勉強時間を設定して「そこまでやれば私でも」「でも、そこまで普通やらないよねーw」という風に思い込んでおけば、「やればできる子」という自己イメージは温存される。

 

 もちろん、すべてのガリ勉信仰者が、自己イメージを守るためにそう思い込んでいるわけではないだろう。単に、身の回りに進学校に入っている人が全くいないだけという人もいるに違いない。が、無知による信仰だけが全てというわけでもあるまい。まったく現場を知らないから「ガリ勉という神話」を信じているのか?それとも何らかの心理的なニーズがあって「ガリ勉という神話」を信じずにいられないのか?両者は表面的には同じでも、その心理的なエフェクトのほどは全く異なっている。ときに、そのような思い込みによって救われるものもあれば、隠蔽されたままになるものもあると思う。