「変」10日前の生々しさ

「こんな書状があったとは…」。本能寺の変に関する一級史料を発見した林原美術館の浅利尚民(なおみ)学芸課長は、驚きの声を上げた。四国の雄・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が明智光秀の腹心・斎藤利三(としみつ)宛てに記した書状の日付は5月21日。「変」の10日ほど前という生々しさだ。四国攻めを何とか阻止してほしいという元親の必死の願いが、光秀を謀反に突き動かしたのだろうか。  

林原美術館は昭和39(1964)年、バイオ関連企業「林原」の3代目社長、林原一郎氏(故人)が設立した。国宝「太刀・銘吉芳」などを所蔵しているが、石谷家文書がいつコレクションに入ったかは不明だという。

 解読を進めるうち、長宗我部元親斎藤利三ら、本能寺の変に縁の深い名前が現れた。そして文意が明らかになり、調査員の間に緊張が走った。

 「そうですか、やっぱり出ましたか…」

 四国攻め回避説、特に斎藤利三の役割を重くみている作家、桐野作人(さくじん)さんは興奮を隠せない。


21日の書状で桐野さんが注目するのは、元親が阿波(徳島県)に築いた城郭に関して述べた部分。(徳島市など)中心部分の城は撤去するが、南部の海部城と西部の大西城は所領の土佐を守るために残してほしいと切々と訴えている。

 「元親が譲歩したといっても、織田信長は阿波を取り上げる方針を決めており、とても報告できない内容だった。こうなったら四国攻めに加担するか、あるいは思い切って謀反に立ち上がるか。決断に迫られたと思う」(桐野さん)

 変の契機に、織田政権内の四国政策をめぐる明智光秀羽柴秀吉の抗争を見るのは藤田達生(たつお)・三重大教授(戦国史)だ。

 「四国攻めは信長の三男、織田信孝を総大将に6月2日、大坂住吉から出陣する予定でした。長年、長宗我部との取り次ぎにあたってきた光秀には、業績を全面否定される屈辱だったでしょう。ライバルの秀吉にも追い落とされるとの思いで、クーデターに及んだのではないでしょうか」

 元親の子孫で「長宗我部」(バジリコ社)の著者、長宗我部友親さん(72)も次のように喜んだ。


「元親の生涯を記した『元親記』という江戸時代の伝記があるが、これほど必死な外交交渉が繰り広げられていたとは…。先祖を誇りに思うし、書状を早くこの目で見てみたい」