ある人が語るロッド像

あー、やっぱりねぇ。そうなるんじゃないかと、思ってました。

 昔から思っていたのだが、ロバート・プラントって、ツェッペリンで活動してて楽しかったんでしょうか?本当は途中から、できれば早くやめたいな、なんて思ってたんじゃなかろうか?だからあんなに一時期ストレス太りしたんじゃないでしょうか?
 ツェッペリンって、ボーカリストにとってはストレスが溜まるというか、楽器演奏中心あるいはサウンドプロデュース中心で、ボーカリストには過大に技巧的・情念的要求がされてたような気がするんですよね。ボーカリストの“声”を生かすんじゃなくて、声という“音”を出すことを強いられて、一人の生身のボーカル担当者としては、もうイヤや!みたいな気持ちになっても不思議でないような、バンドの構造だと思うのですよ。
 確かに、詩作面での影響力、ライブパフォーマンスでの存在感の大きさは、今更とりあげるまでもなく偉大なものですが、ほら、彼らの曲って他のバンドみたいに、シャウト一発!俺が歌うぜ!みたいなノリの曲って少ないじゃないですか。あくまでバンドのインストにボーカルが高度な技術で付いて行かなきゃきゃならない感じの曲が、ほとんどだと思うのですよ。
 するとですね、年齢をとると高い声はでないわ、ステージではすばやく動けないわ、そのくせ高い要求はされるわで、もうヤメや!おまえら勝手にやれや!今更『アキレス』だの『オーシャン』だの、間がもたん!ということで、上のようなニュースになったんじゃないでしょうか?
 ロバート・プラントって、本当はシンプルなロックンロールを歌いたいんじゃないかと、思うんです。たまにフェスティバルに参加して、古いロックンロールスタンダードをプレスリー風に歌ったりするのを見ると、本当に楽しそうだもの。現にそういう企画で作品を発表したこともあったから、余計にそう思います。
 本当はオールディースとかジャジーなスタンダードをカバーしたような作品を悠々自適に発表して、ボーカリストとしての実力をさりげなく見せながら、ミュージシャン余生を過ごしたいんじゃないでしょうか。でも、いざ活動すると、ツェッペリンに似た作風になったり、あるいは逆に意識過剰のように、不自然にツェッペリンと離れた作風になったりする……本当は、こんなことしたくないんでしょう?

 本当は、ロッド・スチュワートみたいになりたいんじゃないですか?

 ちょっと前に、NHK−BSの黄金の洋楽ライブで、フェイセズロッド・スチュワートが取り上げられてた。番組前半はフェイセズ、後半はロッドのソロという構成で、非常に好対照なライブが楽しめた番組だった。
 ロックファンの目で見れば、ブルージィでカッコいいロックンロールのフェイセズ時代のロッドと、ポップで軟弱なトップテン歌手のソロのロッド。飢えた狼のようなフェイセズ時代のロッドと、肥った豚のようなソロのロッド。てな感じの比較が簡単にできてしまい、確かに両者はまったく違うパフォーマンスなのだけど、不思議とロッドのたたづまいはあまり変わってないのですな、これが。
 どちらでも、お決まりのマイクスタンドを振り回すパフォーマンスをするのだが、どこか白けてるような、あまり熱いものが伝わってこない。なにか客席に喋っても、あまり滑らかに話せず、かなりヘタクソである。それでいて、歌は、ものすごーく上手いのだ。
 痩せた狼のようなロックシンガーから、肥った豚のようなポップスターへの変化。
 ステージアクションはヘタクソのまま、相変わらず。
 そんななかで、歌の上手さだけは、輝き続ける。そこにあることは変わらないのに、年を重ねて味わい深くなったワインのように。
ロバート・プラントジミー・ペイジと組んだのだが、ロッドはジェフ・ベックと組んでた時代があって、2枚のアルバムを残しているのだが、私はこれらの作品がなければ、ハードロックというジャンルは生まれなかったんじゃないか、と大げさに思っている。
 ブルースを基調にした曲を、フィードバックを効かせた激しいギターの音で演奏する、そこに必要な激しいボーカルの“音”−当時ベックは新しい音楽をするために、ロッドの“声”ではなく“音”を求めたのだと思う。その試みは、この2枚で成功した。
 だが、ロッドは、それがイヤだったのだろう。彼はボーカリストであり、“声”を出すのが好きで“歌”を歌いたかったのだと思う。だからグループは解散することとなり、ベックはそれ以後、理想の“音”を出すボーカリストにめぐり合えない。
 逆にロッドは、それ以後、ボーカリストとしての欲望に忠実に生きているだけ、という気がする。彼には端から理想の“音”などない。フェイセズと平行してソロ作品を発表し続けたのも、アトランティックをクロッシングしてアメリカのヒットチャートを本気で制覇したりしたのも、ここ最近はスタンダードナンバーばかり歌っているのも、彼にはボーカリストとしての人生しか信じていないから。もはや、この“声”しか残っていないからなのだと思う。
 成り上がりのボーカリスト、って潔いじゃないか。

 だから、彼のキャリアはこれまでスキャンダラスというか、一部のロックファンからは白い目で見られるというか、脇が甘いというか、ずいぶん攻撃され軽く評価されてると思う。やれ、あの曲は盗作だとか、女たらしのスーパースター気取りとか、背が低くて貫禄がないとか、悪口を言われる方が多い。
 当たり前だ。ボーカリストとしての人生しか歩まない、ボーカリストとしての欲望に忠実でありたいと思ってる人間にとってみれば、ストリングスアレンジ満開のベタなバラードを歌おうが、軽薄なポップスターに成り果てようが、身長が157センチだろうが、関係ないのだ!
 むしろ、年齢をとってもそれを認めず、時の流れに逆らうかのように、再結成を繰り返してる人間の方が、彼にとってみれば許せないのかもしれない。
 成り上がりボーカリスト、とはそういうものである。

 ここまで書いて、ふと思う。
 もし、ツェッペリン再結成に、ロバート・プラントの代わりに参加したら、どうなるだろう?!
 さりげなく拒否するかな?いや、“歌”さえ歌えて(そしてギャラが格段によければ!)喜んで参加するだろう。
 『オール・マイ・ラヴ』なんて、本家より絶対上手いよ。