泥臭く勝利にこだわる


 そして、チャンが17歳で出場した、'89年の全仏オープン。浅黒い顔をした無名のアジア系選手のプレーに、観客は驚愕した。

 縦横無尽にコートを走り回り、どんなボールにも貪欲に喰らいつく。劣勢に立たされても表情を崩さず、ポイントを奪っては雄叫びをあげる―。「アジア系には無理だと決めつけた奴らを見返してみせる」チャンはそんな闘争心をむき出しにして、次々と格上を倒していった。

 なかでも、ベスト8をかけて戦った当時の世界ナンバーワン選手、レンドル(米国)との一戦は、いまもテニス史に残る伝説の名勝負となっている。

 「強烈なショットで早々に2セットを奪ったレンドルの勝利を誰もが確信しました。振り回され続けたチャンは足がつり、立つのがやっと。休憩のたびに水をがぶ飲みし、バナナにかぶりつく姿に、観客はみんな苦笑していた。なんだアイツは、あれじゃイエローモンキーじゃないか、と……。

 しかし、そこからチャンは驚異的な粘りを見せた。超スローボール、意表をつくアンダーサーブと、相手を苛つかせる作戦で徐々にペースを〓み、2セットを連取。最後はレンドルが根比べに敗れ、チャンは勝利した」(スポーツ紙ベテラン記者)

 世界ナンバーワンを破った勢いで、チャンは全仏を制覇。17歳3ヵ月でのグランドスラム優勝は、現在も残る史上最年少記録だ。

 アジア系には不可能とまで言われた、4大大会制覇を成し遂げたチャン。世界ランキングも、2位まで登りつめた。

 だが、チャンのこれほどの活躍でも、テニス界に根強く残るアジア人への蔑視を根底から変えるまでには至らなかったという。

 「大会後、チャンのアンダーサーブは、古くからのテニス愛好家の間で批判の対象になりました。『あんな相手を苛立たせる目的のプレーは、紳士のスポーツであるテニスにふさわしくない』というのが彼らの主張です。そしてそのプレースタイルに対しても、ある種バカにするような向きがありました。飛び跳ねるようにボールに飛びつき、コートを駆けまわることから、ついたあだ名は『バッタ』や『ドブネズミ』といったものでした」(前出の記者)

 その後もチャンはたびたび4大大会の決勝の舞台に立ったが、再び優勝することは叶わなかった。

 そして'03年、チャンは31歳で引退。テニス界の偏見を変えるという志は、あと一歩のところで果たせぬままとなった。

 引退後、チャンはひっそりと生活してきた。鋼のメンタルで世界と戦い抜いてきた男だけに、トッププロたちからコーチのオファーはひっきりなしにあった。だが、チャンはその一切を断り、静かに隠遁生活を送っていたのだ。

 チャンが再び勝負の世界へと戻ることを決意したのは、引退からちょうど10年が経った、'13年の秋。彼は錦織からのコーチのオファーに応じた。

 おそらくチャンは、自分が果たせなかった夢を託せる選手を待ち続けていたのだろう。それを示すように、錦織のオファーを受けた理由をこう語っている。

 「同じアジアにルーツを持つ者として感じるものがあった」

 それからは、錦織への熱血指導が始まった。『錦織圭マイケル・チャンに学んだ勝者の思考』の著者で、追手門学院客員教授の児玉光雄氏が言う。

 「チャンはコーチに就任して早々、『きっと君は私を嫌いになるだろう』と告げた。これは錦織を本気で強くしたいという、決意表明です。あるとき、チャンは錦織に『苦手な選手は誰か』と聞いた。錦織が答えると、チャンはその選手の映像を取り寄せ、徹底的に分析し、アドバイスを与えたそうです。そんな熱意に触れ、錦織もチャンを信頼するようになっていきました」

 チャンが錦織の指導において何よりも重視したのは、脆かった精神面の強化。アジア人に対して好意的ではない、いわばアウェーの4大大会の舞台でも、錦織が臆せず戦い抜けるよう、徹底的に指導した。

 「まずチャンは、錦織の技術面を一から作り直しました。元々コーチだったアルゼンチン人のボッティーニは、比較的選手の自主性を重んじるタイプで、錦織はそれに甘える部分があった。簡単にいえば、『今日はこの辺にしとく?』という感じで、練習を切り上げていたんです。

 しかし、チャンは絶対にそれを許さない。それこそ、サーブのときのボールの上げ方、足の運び方など、ジュニアで教わるようなことをへとへとになるまで繰り返させた。練習のときのチャンはまさに鬼で、一切の妥協はなし。錦織は基礎技術が身についてプレーが安定しただけでなく、『これだけやったのだから』と自信を持ち始めた」(前出のテニスジャーナリスト)