クラスを解体して欲しい

ニュースにいじめ自殺学校の校長が出てきて謝る。って、あんたが謝ったって仕方がないんだよ。問題の教師はどうした。謝罪はなしか。クラス代表の謝罪はなしか。口をぬぐってしらんぷり、同窓会じゃ、死ぬのは弱い奴なんだよとか言って大笑いか。どうせそうなるのは今から分かってるけどな。

ところで問題の学校というやつ、ニュースで見る限りでは、何とも不愉快そうな学校なのであった。女子生徒のスカートの丈が判で押したように同じ、というあたり、うんざりするような締め付けをやっているのだろう。うちの学校では応援練習の時に物差し持った奴がスカートの床上がりを計って歩き、僅かでも長かったり短かったりすれば(そしてこれは団員の計り方で如何様にでもなる)、壇上にあげられ、「*年*組何某っ、スカートの丈が長すぎましたっ、すいませんでしたっ」「声が小さいっ」「スカートの丈が長すぎましたっ、すいませんでしたっ」「声が小さいっ」と十回も喚かされるのであった。その他にも摘発の対象となる、校則には一行もない瑣末な規定が山のようにあり、目を付けられた奴はどれかで引っ張られて壇上に晒された。応援団練習がなくとも、目立つ下級生は上級生に呼び付けられて吊るし上げに合うのは当たり前であった。当時もそう思ったが、こんなのを放置するのは今考えたって正気の沙汰ではない。こういう不愉快な学校は当然いじめの巣窟となる。いじめの暴力性も相当のもので、四六時中強制的にプロレスごっこの犠牲となっていたやや発育不全の生徒が、「今日は気絶ごっこをしよう」とか言われて胸郭を締められて昏倒、レントゲンを撮ったら肋骨にひびが入っていた、ということもあった。一応被害者加害者とも教員室に呼ばれるくらいのことにはなったが、喧嘩は両成敗で終り、プロレスごっこは即座に再開した。今だったら地方ニュースだよね。でも、教員は誰も止めなかった。何故なら、こういう暴力的な支配と服従の雰囲気が、生徒をコントロールするには非常に都合が良かったからである。問題の学校のように、教師がクラス全員の前で特定の生徒を犠牲者に指定するのは始終であった。ただし学校全体のフラストレーションは極めて高く、一度は夜中に学校のガラスが全部割られ、もう一度は、授業を放棄した一年生が大挙して三年生の教室のある棟に押し掛けて暴動寸前の状態になった。三年生に呼び出された一年生の女子生徒が戻って来ない、というのが理由だったが、あの時廊下に溢れていた一年生のうち一体何人が事情を知っていたのかは不明である。暴力の支配が生徒を何程良くしていたかも大いに疑問である。何人かの生徒は、既に暴走族予備軍だった。女子には高校生のバイクの後ろに乗っていずこへともなく走り去る奴がいた。『戦争の法』に書いた、女子生徒への傷害を親が金を積んで黙らせた、という逸話は実際に町でも学校でも公然と囁かれていた話だ。ちなみにこの加害者は、私が通過したいじめの首謀者である。私に対して傷害に及ばなかった理由は、彼らに積める程度の金では黙らせられそうになかったからであろう。こういう奴はそういう背景まできちんと見て好き放題をし、教師はそれを放置する。教師にとってこういう生徒は「ミニ・ミー」であり、学級支配の道具であり、カポであり、ちょっとおいたが過ぎるが可愛い奴ということになるのだ。ところで私に対するいじめの原因は、現在ではほとんど気の付く者もいない軽度の障害に起因した。そしてこういうところに始まるいじめは「いじめられたりいじめたり」には絶対に至らないものである。僅かな相違、僅かな欠陥は、その人間を死に至らしめても構わないものとして認識される。集団は共犯意識で固められて非常に扱いやすいものになる。

いじめにも、ひとつ、利点はある。人間の抜き難い邪悪さを経験する機会は滅多にあるものではない。加害者だけではない。傍観者も同等に邪悪なものだ。現在ではひとつの事例として認識しているとはお断りしておくが、許すか許さないか、と言われるなら、私は傍観者たちをも許す気は全然ない。少なくとも、あの時点で死んでいたら許さなかっただろう。

提案をひとつ。いじめを根絶するであろう方法がひとつある。単位制の導入による学年と学級の全面的な解体である。学校はただ行って必要な単位を取得し立ち去るべき場所になる。教師の負担も減り、能力と向学心のある生徒は速やかに全過程を終了できる一方、時間を掛ける必要のある生徒は好きなだけ時間を掛けることもできる。理論上は全学科の進度は必ずしも一致しないので、必要以上に能力差がクローズアップされることもない。何より、無用な人間と共に過ごすことで生じる無用な摩擦は最小限に抑えられる。どうしてもというなら、具体的な目標を達成したら解散することを前提としたサークル活動を活性化すればいい。学校が生徒の心にまで踏み込んで「教育」(特定の人間を苛めの犠牲と定めて団結を深めることを含む)を与えることができるなどという思い上がりはいい加減にやめるべきではあるまいか。

http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2006/10/20061017.html