名文です!

中学生のころ、友人のリッチとぼくは、学食のテーブルの人気度マップを作った。楽勝だった。なぜって、子供たちは、人気度が同程度の連中だけで固まってメシを食うからだ。ぼくたちは、各テーブルを A から E にランクづけした。A ランクのテーブルにはフットボール選手やチアリーダといった連中がわんさか。E ランクのテーブルには、軽度のダウン症、当時の言葉でいう「知恵遅れ」の子供たちがいた。

ぼくたちが座っていたのは D ランクのテーブル。外見上、特に変わったところのない人間としては最低のランクだ。ぼくらのテーブルは、完璧なオタク(nerd)、思春期がなかなか来ない発育不良、最近移民してきたばかりの中国人でいっぱい。別に気取らないフリをして、自分たちを D ランクにしたわけじゃない。そんなことをいったら、まったくのウソになる。学校の中の誰もが、他人の人気度を正確に把握していた。ぼくたちも含めて。

ぼくの知り合いには、学校でオタク扱いされていた人が多い。そして、彼らは皆、口をそろえて同じ話をする。頭のよさとオタクになることの間には、強い相関関係があって、オタクになることと人気者になることの間には、それ以上に強い負の相関関係がある、って。頭がいいと、人気がなくなるようなんだ。

どうしてなんだろう?今、現に学校に在籍している人にとっては、これは愚問かもしれない。この現実はあまりに圧倒的なので、それ以外の可能性がありうるなんて、想像すらできないかもしれない。だが、ありうるんだ。頭がいいといっても、小学校では爪弾きになったりしない。大学卒業後の実社会でも、損になることはない。ぼくの知る限り、他のほとんどの国では、これほど問題は悪化していない。だが、典型的なアメリカの中高校(secondary school)では、頭がいいと、楽しい人生を送れないようなんだ。どうしてなんだろう?

アメリカの中高だけでなく、日本の中高でもそうですよ。

知的水準がそれ自体では人気につながらないとしたら、頭のいい子たちが、決まって人気がないのはどういうわけだろう?ぼくの考えるところ、答えはこうだ。彼らは本気で人気者になりたいなんて、思っていない。

当時、そんなことをいう人がいたら、ぼくだって一笑に付しただろう。学校で人気がないと、どんなにみじめか。中にはあんまりみじめで自殺を図るやつだっているというのに。当時のぼくに対して、人気者になりたいとは思ってない、なんていうのは、砂漠でノドが乾いて死にそうな人に、水なんかほしくないだろう、というようなものだ。当然、ぼくは人気者になりたいと思っていた。

だが、実際はそうじゃない。それほどでもなかったんだ。もっとなりたいものが他にあった。それは頭のいい人間になることだ。学校の成績だけじゃない。それももちろん少しは関係あったけど、信じられないようなロケットを設計したり、うまい文章を書いたり、コンピュータのプログラム方法を理解したりするには、頭がよくなきゃ始まらない。一般的にいうと、すごいものを作れることが頭のよさの何よりの証拠で、定義としては、受動的な IQ テストよりも、そっちの方がずっと正確だ。

当時のぼくは、自分の願望を切り分けて、それぞれを天秤にかけてみるなんてことは、やったことがなかった。やってれば、わかったと思う。頭がいいことの方が、ずっと大事なんだって。学校一の人気者になるチャンスをもらっても、それと引き換えに頭の程度が人並みになる(笑)んだったら、ぼくは断っただろう。

人気がないことから来る苦痛も大きいけれど、こんな申し出を受けるオタクはそう多くないと思う。彼らにとっては、人並みの知能なんて、考えただけでも耐えられない。だが、たいていの子供はこの条件を飲む。そのうち半数にとっては、これはステップアップだ。最高を100として80ランクの人間(当時は、誰もがみんな、知性を量的に評価できると思っていた)でさえ、みんなに愛され、賞賛されることと引き換えになら、30ポイントを手離す気になるんじゃないだろうか?

そしてこれが、ぼくの思うに、問題の根っこなんだ。オタクはふたりの主人に仕える。もちろん、人気者にはなりたい。だが、頭がよくなりたいという思いはもっと強い。しかも、人気は、片手間に得られるようなものじゃない。特にアメリカの中学校のように、競争のすさまじい環境では。

頭のいい子で、人気を気にする余裕も合わせ持っている子は、めったにいない。たまたま見た目がよかったり、生まれつき運動の才能に恵まれていたり、あるいは年上の兄弟が人気者だったりといったことがないかぎり、彼らはオタクになりがちだ。このために、頭のいい人間は、おおむね 11 歳から 17 歳の間に、人生で最悪の時期を迎えることになる。人生で人気がこれほどの力を持つ時期は、これ以前にも、以降にもない。

それ以前の子供の生活は、他の子たちではなく、両親に支配されている。小学校でも他の子にどう思われているかはやっぱり気になるけれど、後にそうなるように、それだけが生活のすべてということはない。
だが、11 歳あたりから、彼らは家族を昼間の仕事みたいに扱うようになる。自分たち自身で新しい世界を創り出し、家庭内での立場よりも、この世界での立場の方が重要になってくる。それどころか、家庭でトラブルを抱えていると、こっちの世界での評価が高まることだってあるくらいだ。

問題は、子どもたちが自分で作りだしたこの世界は、初めのうち、ひどく残酷な世界だということだ。11 歳の子どもたちを、自分たちで作った仕掛けの中に放り込むと、彼らはたいてい『蝿の王』みたいな世界を創り出す。たくさんのアメリカの子供と同じように、ぼくもこの本を学校で読んだ。おそらく、それは偶然ではなかったのだろう。ぼくたちは野蛮だ。ぼくたちが自分で作った世界は残酷で馬鹿げてる。このことを、誰かがぼくたちにわからせようとしていたのかもしれない。でもぼくには、微妙すぎた。この本の内容は、まったくありそうな話だと思ったけど、そこに付け足されたメッセージはわからなかった。お前たちは野蛮人だ。お前たちの世界は馬鹿げてる。率直にそういって欲しかった。

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オタク君が自分の人気のなさを自覚しても、単に無視されるだけならまだ耐えられる。だが残念なことに、学校で人気がないと、積極的に迫害の対象になってしまうんだ。
どうしてそうなるんだろう?今現に学校に在籍している人にとっては、これも、やっぱり不思議な質問だと思うだろう。それ以外にどんな可能性があると言うのさ?でも、あるんだ。普通の大人は、オタクを迫害したりはしない。じゃあどうして 10 代の子はやるんだろう?

ティーンエイジャーとはいっても半分は子どもだから、という面はあるだろう。子どもの多くは、生まれつき残酷だ。蜘蛛の足を引っこ抜くのと同じ理由で、オタクをいじめる連中もいる。良心が芽生えるまでは、拷問は楽しい。

オタクを迫害するもうひとつの理由として、それで気分がよくなるということもある。水を踏みしめれば、水が押し下げられて自分は浮かび上がる。同様に、どんな社会階層であっても、自分の立場が不安な人は、自分より地位が下と思われる人たちにつらくあたることで、それを固めようとする。どこかで読んだことがあるけど、黒人にもっとも敵意を抱いているグループは合衆国の貧乏白人だ、というのは、これが理由なんだそうだ。

だが、ぼくのみるところ、オタク迫害のいちばんの理由は、それが人気メカニズムの一部になっているという点だ。人気のうちで、個人の魅力に左右される部分はごくわずか。もっと大きくモノをいうのは、同盟関係だ。人気を高めたければ、常に、他の人気のある人に近づくような行動を取り、共通の敵に近づくような行動は避けることだ。

政治家が、自分の都合が悪くなると地元有権者の気をそらすためにやるように、いなければでっちあげてでも敵を作るんだ。社会的に階層の低いものが、安全な敵となる。オタクをつるし上げ、迫害することで、上位階層の子どもたちは自分たち同士のきずなを作り出す。ひとりのアウトサイダーを攻撃することで、全員がインサイダーになれるんだ。いじめで最悪のケースが、集団で行われるのはこれが理由だ。どんなオタクにでも聞いてみるがいい。子どもたちが束になると、どんなにサディスティックな個人によるいじめより、ひどい仕打ちをする。
少しは慰めになるかもしれないから言っておくけど、でも、それは人間性の問題じゃないんだ。束になって君にちょっかいかける連中がやっていること、そしてその理由は、徒党を組んでハンティングに出かける連中とおなじ。やつらは本気でキミを嫌いなわけじゃない。単に、追いかけるものが欲しいだけなんだ。

オタクは最下位にいるから、どんな派閥にとっても安全なターゲットだ。ぼくの記憶が確かなら、いちばん人気のあった子はオタクを迫害しなかった。わざわざそんな低級な人間を相手にする必要がなかったんだ。いじめをやるのは、その下の子どもたち。つまり、ピリピリしたミドルクラスの連中だ。

やっかいなのは、こいつがやたらといることだ。ぼくは、人気の配分はピラミッド型じゃなくって、西洋ナシみたいに下の方がすぼんでるんじゃないかと思っている。人気最低のグループは、すごい少数派だ。(例のカフェテリア・マップでも、D ランクは、ぼくたちのテーブルだけだったはず)。だから、オタクをいじめる連中の方が、オタクよりもたくさんいる。

もしいじめがあるとすれば、それが活発なほど、人気バランスの半数は苦痛を避けられる。人気のない子を遠ざけるとポイントが加算されるのと同様に、近づけばポイントを失う。ぼくの知り合いの女性の話だが、彼女が高校の時、オタクたちが好きだったけれど、彼らと話をしているところを見られるのは怖かったそうだ。他の女の子たちにバカにされるからだ。嫌われ者は伝染病だ。オタクをいじめるほど悪くない子も、自分を守るために、彼らを村八分にする。

そういうわけで、頭のいい子たちは、中学〜高校と不幸な時代を過ごすことが多い。不思議でもなんでもない。別のことに夢中なので、人気のことを気にかける余裕はほとんどない。そうなると、人気はゼロサム・ゲームなので、彼らは全校の攻撃目標になる。妙な話だが、この悪夢のシナリオが生まれるにあたっては、意識的な悪意はまったくからんでいない。状況がそうさせているにすぎない。

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今でもそうかどうかわからないけど、ぼくの学生時代には、頭のいい子たちの間では、しょっちゅう自殺の話が出ていた。知りあいの範囲内では、実際にやったやつはいない。でも、計画していた人は何人かいたし、試してみた人もいたかもしれない。だいたいは単なるポーズにすぎない。他のティーンエイジャー同様、ぼくらもドラマチックなことにあこがれていたし、自殺はすごくドラマチックに思えたからね。だけど、ひとつには、当時のぼくたちの生活が本当にみじめだったってこともある。こんな状況を作った大人たちには想像もできないくらいみじめだったんだ。

いじめは問題の一部でしかない。それ以外の、そしてたぶんもっとタチの悪い問題は、ぼくたちには、本物の手応えのある仕事がぜんぜんなかったってことだ。人間は仕事好きだ。世界中のほとんどで、仕事はアイデンティティになっている。ぼくたちのやっていたことはどれも無意味だった。少なくとも、当時の自分たちにはそう思えたんだ。よくいっても、それは遠い将来にやるかもしれない本物の仕事のための予行演習といったところだった。でも、先の見えない当時のぼくらには、それが何の練習なのかもわからなかった。大部分は、不定期にやってくるくぐり抜けなきゃいけないサーカスの輪みたいなもので、ほとんどはテストのためにだけ生み出されたような中身のない言葉にすぎなかった。(仏印戦争が起こった原因は主に3つあるが… テスト:仏印戦争の主な原因を3つあげよ)。

そして、そこからはずれる方法はなかった。これこそが大学へ進む道だと、大人が自分たち同士で決めてしまった。この空しい生活から逃れる唯一の方法は、服従しかなかった。

頭のいい子たちがきまって自殺にとりつかれているなんて、なにかおかしい。ぼくの学校だけじゃない。高校時代になんとなく自殺的な傾向を持っていた人には、今までたくさん会ってきた。

子どもがそんなことを考えると、その子に責任のある大人は、なにかと「ホルモン」のせいにしたがる。たしかにそういう面もあるだろう。だが、問題のほとんどは、子どもが強いられている生活にある。

このムショ勤めの中でも、中学校は最悪だった。子どもの文化は新しくて残酷、しかも、このあと頭のいい子を徐々に切り分けていく専門分化は、まだほとんど始まっていない。ぼくと話をしたほぼ全員がこう認めている。最悪の時期は、11 歳から 14 歳の間のどこかだったって。

ぼくたちの学校では、それは 8 年生だった。ぼくの年齢でいうと、12 歳から 13 歳にかけてのことだ。その年、ちょっとした騒ぎがあった。スクールバスを待つ女の子たちの話を立ち聞きした先生が話の内容にショックを受け、翌日、一時限まるごと使って雄弁を振るって、他人に対してあまりひどい仕打ちはしないよう嘆願したんだ。

特にこれといった効果はなかった。そのとき印象的だったのは、あの先生が驚いたってこと。彼女はほんとに知らなかったんだろうか。子どもたちが仲間うちでどんな話をしているかを。ほんとにあれが普通じゃないと思っているんだろうか?

ここを理解しておくことがかんじんだ。大人たちは、子どもたち同士でどんなことをしているか知らない。子どもたちがお互い同士、バケモノのように残酷だってことは、観念的にはわかっている。それは、貧しい国では拷問が行われているってことを、ぼくらが観念的に理解しているのと似ている。だけど、ぼくら同様、彼らも、そんな気分の滅入るようなことは受け入れたくない。だから、はっきりしたいじめの証拠があっても、それを探してでもいない限り、彼らの目に入らないんだ。

公立学校の教師は、刑務所の看守とかなり似たポジションにある。看守の主たる関心は、囚人を建物から出さないこと、食べ物を切らさないこと、そしてできるだけお互い殺しあわないようにすること。それ以上は、囚人とはできるだけ関わり合いになりたくないと思っている。だから、あとはどんな社会組織であれ、勝手に作らせておくわけだ。本で読んだところでは、囚人の作る社会は、常軌を逸した野蛮で支配的なもので、その最下層にいるのは、まったく不愉快なことらしい。

大筋でいうと、ぼくの通っていた学校もこれと変わりなかった。いちばん重要なのは建物から出ないこと。そこでは、エライ人たちがぼくらに何かを食わせ、公然たる暴力を防止し、何かを教えようとはしてくれる。だが、それ以上は、子どもと深く関わりたくないと思っている。

これは 100 %理解できる。アメリカのティーンエイジャーは、頭痛の種だからだ。ひとり、ふたりでも手一杯なのに、学校全体などとても無理だ。そこで刑務所の看守と同様、教師たちは、ぼくたちを勝手にやらせておくわけだ。そして、囚人と同様、ぼくらの創り出す文化は原始的だ。


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