法律も市民社会の論理も学校ではシャットアウトされる

 メディアは、学校制度の構造的な問題から人々の目をそらし、「心がけ」の問題に意識を誘導し続け、結果的にひどい状況がいつまでも続く片棒を担ぐ。たとえば朝日新聞社の『いじめられている君へ いじめている君へ いじめを見ている君へ』(朝日新聞出版・2012年)では、社会的成功者たちが体験談を交えて「心がけ」を説く。

 いま、私たちが信じて疑わない学校の「あたりまえ」を考え直す必要がある。学校は、同年齢の生徒たちを一纏(まと)めにして、朝から夕方まで狭いクラスに軟禁する(学級制度)。そのうえで、授業から給食、班活動、クラス対抗の学校行事、掃除、部活動など、ありとあらゆる強制的な仕掛けを使って、生活を頭のてっぺんからつま先まで集団化しようとする。

 学校は、人と人が自由に距離をとることを許さない。生徒たちが「教育的なしかた」で関わり合い、共に響き合って生きるよう、強制的にベタベタさせる。

 さらに学校は「教育の聖域」とされ、原則的に法が入らない、治外法権の場所になっている。学校は、生徒たちの市民的自由を剥奪し、狭い世界での過密な集団生活を強いる。そして、大人であればあたりまえの市民社会の論理は、学校ではシャットアウトされる。

 このような生活空間で、外部と異なる生徒たち独自の小社会が生まれ、その小社会に固有の秩序と現実感覚が生じ、優勢となる。それは「仲間うちの勢いが絶対」「ノリは神聖にして侵すべからず」というタイプの秩序であり、「いま・ここ」の群れの付和雷同が何よりも重要になる。このような秩序状態のなかで、いじめが蔓延し、エスカレートし、歯止めが効かなくなる。